「もしかしたら、帰国してもらうかも」家業の窮地、母からの国際電話 日本の「ネジ」を支える老舗5代目の女性社長

創業102年の「田野井製作所」(埼玉県白岡市)は、ネジをつくるための工具「タップ」と「ダイス」を製造販売し、見えないところで私たちの生活を支えている。戦災やバブルによる経営悪化を乗り越え、高い技術を生かした「オンリーワン」の製品で底堅い人気を誇る。5代目となる田野井優美代表(48)に、会社の成り立ちや、家業を継いだ経緯を聞いた。
目次
タップとダイスの専門メーカーとして創業102年商品

−−−−田野井製作所の成り立ちと事業内容を教えてください。
祖父が1923年11月に創業しました。祖父は職人肌で器用だったので、周囲に勧められて会社を4回ほど興したようです。しかし、どれもうまくいかず、会社を立ち上げては潰れるの繰り返しで、食いつなぐためさまざまな職業に就いたと聞いています。
1923年は、9月1日に関東大震災が起こり、祖父が当時勤めていた会社が潰れ、5度目の正直で品川区大井で会社を興しました。それが現在の田野井製作所です。
祖父は以前に横須賀海軍工廠にいたことがあり、海外製のネジの製造方法を取得していました。当時、ネジ関連製品の多くが海外製で高価だったため、安くていいモノを提供できたら喜ばれると考えたわけです。
弊社は、創業当時から一貫してタップとダイスを製造販売しています。「タップ」とはネジを入れる穴に螺旋状のネジ山をつくる工具で、主に工業製品メーカーに販売しています。「ダイス」はネジの元になる金属の棒にネジ山をつくる工具です。こちらはネジメーカーに販売しています。
業界用語では、ネジが雄ネジ(おねじ)、ネジ山が雌ネジ(めねじ)と言われており、この2つがワンセットではじめて機能します。「タップ」も「ダイス」も、我々の生活のあらゆるところで使用されていますが、ほとんど見えません。
弊社は、いわば縁の下の力持ち的な存在として100年間事業を継続し、たくさんの成功と失敗を経験して、蓄積しているのが強みです。
祖父からの教えを胸に、たび重なる経営危機を乗り越える

−−−−その後、田野井製作所はどのように歩んできたのでしょうか。
創業当初は、自社製のタップとダイスを持ち込んで営業しても足元を見られ、原価にもならないような値段で買い取られたようです。しかし、「品質が外来品と遜色ない」と認知されて以降は、利益が取れるようになりました。
その後、日本が高度経済成長期に入ったことや、タップとダイスの大量生産化に成功したこともあって、事業を拡大して埼玉県や宮城県に製造部門の工場を開設しました。
−−−−先代であるお父様への事業承継について教えてください。
父は祖父から直接事業を承継したわけではありません。祖父はバイタリティ溢れる元気な人物でしたが、70歳で交通事故に遭い、承継者問題が発生します。祖父は父に承継してほしかったようですが、まだ20歳と若かったため、私の叔父が2代目になりました。その後、生え抜き社員が中継ぎで3代目になり、父は1987年に事業を承継します。
1980年代に入ると、資本力のある会社が業界に参入し、1985年のプラザ合意で急激な円高が発生し、業績が悪化しはじめました。売上は当時から海外向けが3割ほどあったので、円高の影響は大きく、海外に製造拠点を持つ企業に価格競争で負けてしまう状況が続きました。
父が事業を承継したのは、なんとか経営を継続していたどん底の時期だったので、大変だったと思います。
−−−−先代はどのような取り組みをしたのですか?
会社を存続できないと考えた父は、標準的な製品ラインナップでは大手にかなわないので、自社にしかできない、オンリーワンの商品をつくる方向に大きく舵を切りました。
リスクがあったはずですが、借り入れをしてNC付きのネジ研機を開発します。「NC」とは数値制御を意味し、加工に必要な作業の工程などを数値情報で指令する制御です。
これを機に、オンリーワン商品の開発が少しずつ進むようになり、NC付きオリジナル機械は特許を取得しました。今でも根強く人気があります。
方向転換で会社は持ち直してきましたが、直後にバブルが弾け、うまくいきそうになったら梯子を外されるようなことが続きました。それでも、父はいつも前向きで、家庭内で会社の愚痴などを言っていた記憶はありません。というのは父が祖父の教えを愚直に守っていたからでした。
祖父は5回も会社を興し、関東大震災や太平洋戦争も経験しています。私が想像できないくらい苦労をしてきたので、「何があっても前向きでいろ」が口癖でした。父は祖父の教えに従いながら少しずつ経営を立て直していきました。
「将来のことは考えない」――海外と日本を往復する生活
−−−−田野井代表はどのように育ってきたのでしょうか?
私は兄と双子の弟がいる4人兄弟です。家業の内容はなんとなくわかっていましたが、女性は私だけですので、継ぐことはまったく考えていませんでした。両親は子どもの自主性を尊重する教育方針だったため、長男だから兄が家業を継ぐ、みたいな考えはなく、兄弟全員がやりたいようにやらせてもらえる家庭でした。
私は子どものころに、ヘリコプターの女性インストラクターを特集していたテレビ番組を観て、すごくかっこよく感じました。将来はこの仕事をしたいと考え、当時はアメリカで資格を取るほうが安価で、取得しやすいので留学の相談をしました。
父はヘリコプターのインストラクターには反対しましたが、国際化を見据えて留学は賛成してくれ、高校卒業後にカナダの語学学校に進学し、カナダのビジネススクールにも行きました。その後、米ロサンゼルスの大学のビジネスコースで学びました。
当時、将来設計はイメージできていなかったです。とにかく海外生活が楽しかったので、ビザが切れたら日本に帰り、アルバイトをしてお金が貯まったらまたアメリカに戻るような生活をしばらくしていました。
父への恩返しのために入社、しかし……
−−−−家業に入るきっかけを聞かせてください。
当時、私は両親から援助を受けながら海外留学をしていました。父が代表になってからの会社は一進一退で、決して安定はしていなかったのですが、私は楽観的に考えていて、実情を知らなかったのです。
しかし、1998年に母から国際電話がかかってきたことが私の人生を決定付けました。事情を聞くと、大きく取引していた2社がほぼ同時に倒産し、「場合によっては帰国してもらうかもしれない」と言われたのです。
そのときは、会社が窮地を脱して留学を続けることができたのですが、はじめて無理して好きなことをやらせてもらっていたことに気づき、父に恩返しできることはないか、と考えるようになりました。
そして、学校のコースが一段落した2002年に帰国して入社し、英会話能力を生かして海外顧客を担当する海外部に入りました。
しかし、当時の社内は表情がみんな暗く、挨拶やコミュニケーションを取るような習慣もない。さらに、社内のいたるところが乱雑で、陰鬱な空気が漂っていました。意気揚々に入社したけど、すごく不安になったことを覚えています。
田野井優美氏プロフィール
株式会社田野井製作所 代表取締役社長 田野井 優美 氏
1976年、東京都生まれ。高校卒業後、カナダとアメリカに留学し、2002年サンタモニカカレッジ インターナショナルビジネス修了後、田野井製作所入社。海外経験とビジネスセミナーで学んだ経験をもとに社内改革を実践し、2009年に取締役副社長に就任。創業90周年の2013年に代表取締役社長に就任し、次代の経営体制に向けて新たな取り組みを開始。創業100年を超えるタップ・ダイスメーカーの高い技術と商品開発に尽力し、「モノづくりは人づくり」をスローガンに掲げ、人財育成に力を注ぐ。
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